タニス・リー『バイティング・ザ・サン』
嵐の夜には世界が揺らいでしまうような空気がある。黒くたれ込める雲や、世界に亀裂を走らせるような雷、周囲の音を全て無にしてしまうような雨。どこか天地創造を思わせるのかもしれない。だから、嵐の夜には今いるのとは違う世界へと誘ってくれる小説が似合うのだと思う。***こんな世界があったらどうだろう。労働は全てロボットたちが行い、人間はただひたすら快楽を享受する。自分自身の身体は、理想通りにデザインでき、自殺してもすぐにまた新しいデザインで新しい身体を与えられる。もちろん性別も選択可能。死も病気も無く、犯罪も無く、犯罪という概念も無く、自らが見る夢さえ、思い通りにプログラミングできる。それは果たして、理想の世界なのだろうか。
タニス・リー『バイティング・ザ・サン』(1977)はそんな世界に、自身に、違和感を感じ、のたうち回る少女を描く。一見"理想的"と見える物事には、それを突き詰めたときの歪みや、何か腑に落ちない暗部がありはしないか。一見"反抗的"と言われる物事には、周囲との違いや自己の存在を掴み取ろうとする、稀有な輝きがありはしないか。小説という表現のすごいのは、そういうことをただハウツー本のように、考えることを端折ったアンサーとして提示するのではなく標語のように、単純にこうしなさいと押しつけるのではなく読み手を別の世界に誘うことで、自ら"感じ考える"という過程を呉れること。この物語にはこういうフレーズが登場する。"太陽に噛みつくな、旅人よ。さもなくば、その口を焼き切らん。"古い砂漠の碑文に記されたそのフレーズに、主人公は大きく心を揺さぶられる。言葉は、抽象的で、短く、詩的要素があるほどそこに内包するものは大きくなる。エッセイより小説の方が、小説より詩の方が、芸術性は高くなると言われるがそれは、余白(想像の余地)が大きくなるからだ。余白の大きさは神聖性にも繋がる。この小説の中で最も詩的なのがこのフレーズ。古代の神の存在や、神話の存在、主人公が当たり前だと思われていた価値観に反抗する姿、読み手によっていろんなものが重なり合って映る。そこには詩的な"余白"が存在するから。それに、この小説にはまれに見る豊かな色彩感がある。ぜひ、都市に暮らす時の少女や周りの人たち色彩感と、砂漠に追放されてからの色彩感を比べながら読むと面白い。どちらもグロッシング!(小説の中の言葉で「すばらしい」の意)だけどそこにはちゃんと「美しさ」を書き分けてある。そういえば、ここに書こうとして気付いた。主人公の名前ってなんだっけ。読んだ覚えがない。慌ててページをめくってみたが、やはり無い。ああ、主人公の名前は出てきていないのだ。名前というのは、他者を識別するための記号であって私が私という存在を認識するためには必要ないからなのだろうか。読み手が主人公に同化するための仕掛けなのだろうか。(自分自身が主人公と化してしまえば名前は要らない?)そういえば主人公のペットが夢に出て来てこう言ってたっけ。「名前だって?君が気にするのはそんなことだけなのかい?」いずれにせよ、私はここに至って初めてそれに気付くくらいこの小説の世界に飲み込まれていたんだ。嵐の夜に、垣間見た別の世界。なんてインスマット・グロッシング!
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