久坂部 羊『廃用身』(幻冬社文庫)
以前、「読書メーター」なるものに登録してたこともあるのだけど、読んだのを端からレビューしなきゃならないような追い立てられる感じがしてしまってやめてしまった。読むのはホントに好きだけど、書きたい本のことをたまに書くくらいが私にはちょうどいいかも。今年に入って(と言ってもまだ2ヶ月だけど)読んだ本の中で、一番衝撃的だったのがこれ。(なので、会う人ごとに勧めまくってます、すみません。笑)久坂部羊の『廃用身(はいようしん)』。
リハビリをしても治る見込みのない麻痺した手足のことを"廃用身"と呼ぶのだと、この小説で知った。主人公である医師はその"廃用身"を切断するという治療を思いつく。ここで「切断」と聞いて即、"残酷"だと言うのはずいぶん短絡的だということが、読んだ人には分かるはず。少なくともこの小説にはその「切断」を真剣に考えさせられるだけの説得力がある。治る見込みのない手足があるために、患者は自身で着替えができない、食事や排泄ができない、褥創が治らない、何をするにも人の手を要する。ところがその"廃用身"がないだけで、患者自身が身軽になり、身の回りのことが自分でできるようになったり介護する側の負担が激減したりする。さらに、切断によって血流が改善して、知能・性格・身体能力などにおいて想像以上の改善が見られるのだから。ただし、この小説はまた、「切断」を正当化し納得させるために書かれているわけでもない。その治療によって生まれた"影"の部分も苦しくなるほど丁寧に書かれている。身体機能が回復したために殺人を犯す患者。後になって「本当は切りたくなかった」と気持ちの揺れる患者。患者のためと思っていたのは「偽善」ではなかったかと自らの気持ちさえ分からなくなる医師。「悪魔の医療」だと叩くメディア。結局、医師は自らの命を絶ち、家族もまた同様の道を辿ってしまう。ここに描かれる影は、想像以上に濃く、想像以上に複雑。この久坂部羊という作家は、もともと医師だという。ああ、この人は知っているんだ。いま、医師としてできることがどこまでで、いま、作家としてできることが何なのかを。だから、小説の中で行ったのだ。この治療を。現実に、初めて開腹手術をした医者はどうだっただろうか。初めて輸血をした医者はどうだっただろうか。初めて臓器移植をした医者はどうだっただろうか。今は当たり前のように行われている医療も、最初に試みた医者は、この小説の主人公のように悪魔だと罵られ、糾弾されはしなかったか。そして、そういう"贄"のような存在を踏み台にして何事もなかったかのように医療は定着してきたのではなかったか。人間が一歩一歩踏み込んできた医療や科学の歴史に思いを巡らせると、この小説に書かれた世界のリアルさに改めて背筋がぞくっとする。そして、作家はこの小説の中で一人の医師を歴史の中で繰り返されてきたように"贄"として差し出したような気がしてならない。***今年、86歳になる祖母が時折、「手間をかけて、ごめんねぇ」と本当に申し訳なさそうに言う。年を取り、身体が不自由になってくると、一番辛いのは不自由なことそのものではなく、それによって誰かの手を煩わせることらしい。自分が年を取ったときにも、きっとそう思うのだろう。「周りの人が楽になるよ」その言葉は、今の私が感じるより遙かに重たい意味を持つのではないだろうか。すぐれた小説というのはよく社会に対する「予言」に近いことを描く場合がある。いやでも考えてしまう。もしも廃用身切断という選択肢が現実のものとなったときに、その言葉を切り札として出されたら・・・・。私たちは本当の意味で「判断」ができるのだろうかと。
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