立川志の輔独演会
私の言葉は、ちゃんと届いているかしら。
私の思いは、ちゃんと伝わっているかしら。
志の輔さんは、
落語という日本の芸能は、
日本語という複雑な体系を持った言語だからこそ成り立ったのだと、
そう話してくれました。
たとえば一人称に英語の"I"だけでは表現しきれない数多くの表現があること
「私」「俺」「僕」「あっし」「手前」「わし」…
二人称もしかり。
そして敬語もまた。
一人の語り手が、殿から長屋住まいまで、隠居も源さんもおっかさんも
すべて語り分けができるのは
ほかの言語にはない日本語の複雑さゆえなのだと。
志の輔さんはその上に
抑揚や間合い、動き、目線、様々な要素を添加して、
まさに「プロ」といえるステキな舞台を披露してくださいました。
演目は、「猿後家」と「八五郎出世」。
八五郎出世、最後は八五郎が士分に取り立てられるという「鶴の一声」ではなく、
士分はまっぴらゴメンだという「鶴の一声」でオチが付いていたのは
志の輔さんならではなのかしら。
軽妙で、温かな笑いが会場中を埋め尽くす、いい時間を過ごしました。
そして長時間にわたる演目の最初から最後まで、観る人聴く人すべてを引き込む
圧倒的な「技術」は本当にすばらしい物でした。
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日本語の複雑な体系が落語という芸能を育ててきたように、
"書"もまた、日本語の持つ複雑さゆえに発達してきたことは明かです。
漢字・かな・カタカナ…という文字の種類の多さ
それぞれの持つ、字体・崩し方・連綿の仕方の多彩さ、
空間の取り方、行の動かし方の自在さ、
それに加えて、筆墨硯紙のレベルの高さ・種類の多さ。
複雑であるということは、それだけ表現の幅が広がるということにほかなりません。
その分野について、その民族がどれほど心を傾けてきたかということの
証拠でもあります。
他の国に例を見ないほどの複雑な言語体系・文字体系は、
日本人という民族が「言葉」というもの「文字」というものを
それほどまでに重視してきたという歴史そのものです。
それだけの武器を
プロとしてどこまで使えるか。
表現するための「技術」をどこまで磨けるか。
伝えるということは、難しくて、
それだけに、あまりにも魅力的だと思うのです。
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3/7(日)
府中市文化センターへ志の輔さんの落語を聴きに行きました。
http://koishiki.shinlog.jp/koishiki/2010/02/post-492c.html
心のふるさと「恋しき」、府中の有力者の
ご尽力で、すてきな場を提供していただけたこと、ありがたいなぁと思います。
しかもS席で4000円という破格のチケット代。…いいんでしょうか(笑)
地元にこのような文化イベントが
増えていけばいいなぁと切に思います。
それにしても、よーわろた(笑)
人生初の生落語。
いいねー、落語って。
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