基礎を培うということ
私は、「草蔵」という会に入って俳句を習っている。
私なんかが言うのはおこがましいけれど、
代表の佐々木六戈は驚くほど博識かつ豊かな発想の表現者で、
この先生に付いて良かったなと素直に思える。
誰しも-そして自分が仮にも「先生」と呼ばれる立場にあればなおさら-
師とあがめ頭を垂れる相手が居ることは重要で、
私にとってそれは、書の師匠であり、お茶の先生であり、俳句の先生であり、
それぞれ良い師に出会えたなあと感謝している。
で、俳句の会の事なのだけれど、
これは毎月福山で句会を開いて、
参加者全員の句を東京に居る先生の元に送り、
数日後にコメントを付したものが帰ってくる、という具合。
今回、そのコメントの最後に、先生がこう書いていた。
句は誰にも似てはいけない。
しかしそれは常識の壁を通過してから後のことです。
最初からする奇想は幼稚です。
すとんと腑に落ちる言葉だった。
*
うちの書道教室には、時々
「遊書だけ習いたいんですけど」
という問い合わせがある。
私も、書道体験イベントなどを時々開いて、遊書を楽しんでもらったりすることはあるけれど、
それあくまでイベントの時のこと。
内部生も季節ごとに遊書を楽しんでもらったりするが、それは通常習う内容とは違う。
先の問い合わせに対しては、
「遊書だけというのはしておりませんが、
基礎力を養っていく中で、
季節ごとのイベントとして楽しんでもらうようにしております。
一度、普段の練習を見学にいらしてはどうですか?」
と答える。
残念ながら、そういう問い合わせの方が教室に来ることはまずない。
個々の好みもあろうから、それがダメだとは思わないけれど、
私の教室の方針とは合わないかもしれないなぁとは思う。
習うというのはそういうものではないし、
学ぶというのもそういうものではないと思っているから。
遊書というのは、基礎力を培った上での、応用であり、発想の遊びと言える。
基礎を培うことなく、奇をてらった字を書いてみても、
何も身に付かないし、そこから先へは進めない。
最初からする奇想は幼稚です。
佐々木六戈の言葉は、そのまま書にも通じる。
*
遊書のイベントは、限られた時間の中で
一番単純な意味での「おもしろさ」を味わってもらう場だと考えている。
つまり、遊書を楽しむのに必要な基礎練習、応用としての発想、細かい準備は
すべてこちらが肩代わりして、
最終的な結果の部分のみ簡単に体験してもらっているという状態。
書の本当の意味での「おもしろさ」はもっと厚みを持っている。
そしてそれは、基礎練習を積み上げ応用してみる、
応用してみて改めて基礎の大事さを思う、
また基礎練習を積む、応用してみる……
その繰り返しの中で獲得していくものにほかならない。
ここで初めて「上達」もできる。
基礎を積み上げてきたお弟子さんの中には、
こんな字を書いて、こんなのが作りたい、
こんな風に表装したい、ランプシェードに仕立てたい、
だからこうしようと思っています、など
一から組み立てる応用力を手に入れ始めた人もいる。
そこまではできなくとも、
6月の社中展では皆、自分が何を書きたいのか、探し、選ぶという最初のステップを踏み、
自分が普段練習していることを表現に応用する、ということにチャレンジしている。
そういう力の積み上げ方を、私は心から嬉しいと思う。
*
そう、忘れてはならない。
最初からする奇想は幼稚です。
それは、私自身が最も肝に銘じておかなくてはならないこと。
作品を作っていく上で
発想が独りよがりな奇想になってしまわぬように。
基礎力は一朝一夕になるものではないのだから、
ゆめゆめおろそかにせぬように。
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私なんかが言うのはおこがましいけれど、
代表の佐々木六戈は驚くほど博識かつ豊かな発想の表現者で、
この先生に付いて良かったなと素直に思える。
誰しも-そして自分が仮にも「先生」と呼ばれる立場にあればなおさら-
師とあがめ頭を垂れる相手が居ることは重要で、
私にとってそれは、書の師匠であり、お茶の先生であり、俳句の先生であり、
それぞれ良い師に出会えたなあと感謝している。
で、俳句の会の事なのだけれど、
これは毎月福山で句会を開いて、
参加者全員の句を東京に居る先生の元に送り、
数日後にコメントを付したものが帰ってくる、という具合。
今回、そのコメントの最後に、先生がこう書いていた。
句は誰にも似てはいけない。
しかしそれは常識の壁を通過してから後のことです。
最初からする奇想は幼稚です。
すとんと腑に落ちる言葉だった。
*
うちの書道教室には、時々
「遊書だけ習いたいんですけど」
という問い合わせがある。
私も、書道体験イベントなどを時々開いて、遊書を楽しんでもらったりすることはあるけれど、
それあくまでイベントの時のこと。
内部生も季節ごとに遊書を楽しんでもらったりするが、それは通常習う内容とは違う。
先の問い合わせに対しては、
「遊書だけというのはしておりませんが、
基礎力を養っていく中で、
季節ごとのイベントとして楽しんでもらうようにしております。
一度、普段の練習を見学にいらしてはどうですか?」
と答える。
残念ながら、そういう問い合わせの方が教室に来ることはまずない。
個々の好みもあろうから、それがダメだとは思わないけれど、
私の教室の方針とは合わないかもしれないなぁとは思う。
習うというのはそういうものではないし、
学ぶというのもそういうものではないと思っているから。
遊書というのは、基礎力を培った上での、応用であり、発想の遊びと言える。
基礎を培うことなく、奇をてらった字を書いてみても、
何も身に付かないし、そこから先へは進めない。
最初からする奇想は幼稚です。
佐々木六戈の言葉は、そのまま書にも通じる。
*
遊書のイベントは、限られた時間の中で
一番単純な意味での「おもしろさ」を味わってもらう場だと考えている。
つまり、遊書を楽しむのに必要な基礎練習、応用としての発想、細かい準備は
すべてこちらが肩代わりして、
最終的な結果の部分のみ簡単に体験してもらっているという状態。
書の本当の意味での「おもしろさ」はもっと厚みを持っている。
そしてそれは、基礎練習を積み上げ応用してみる、
応用してみて改めて基礎の大事さを思う、
また基礎練習を積む、応用してみる……
その繰り返しの中で獲得していくものにほかならない。
ここで初めて「上達」もできる。
基礎を積み上げてきたお弟子さんの中には、
こんな字を書いて、こんなのが作りたい、
こんな風に表装したい、ランプシェードに仕立てたい、
だからこうしようと思っています、など
一から組み立てる応用力を手に入れ始めた人もいる。
そこまではできなくとも、
6月の社中展では皆、自分が何を書きたいのか、探し、選ぶという最初のステップを踏み、
自分が普段練習していることを表現に応用する、ということにチャレンジしている。
そういう力の積み上げ方を、私は心から嬉しいと思う。
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そう、忘れてはならない。
最初からする奇想は幼稚です。
それは、私自身が最も肝に銘じておかなくてはならないこと。
作品を作っていく上で
発想が独りよがりな奇想になってしまわぬように。
基礎力は一朝一夕になるものではないのだから、
ゆめゆめおろそかにせぬように。
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